多度神宮寺の面影

○ 多度山東面に位置する柚井地区は、 陽光に恵まれた農耕地として、太古から人々が集落を形成しておりました。日本で最初に木簡(もっかん)が出土したところとしても有名です。柚井の名称の由来は、「有井」であり、人々の集いの場所である井戸のあるところを意味します。この地は、伊勢国の北端に位置し、東は美濃、東は尾張に接しており、古代中世の東海道交通の要衝にありました。

○ 奈良(天平)時代には、 神仏習合思想の初期文化として多度神宮寺の建立、荘園の寄進されたことが「多度神宮寺伽藍縁起資材帳(重要文化財)」に記されております。多度山は、太古から神体山として近在信仰が厚く、神仏習合時においては、神の霊域に仏の現れる場所として、仏教を広めるために寺院を建立したものと推察されます。すなわち、多度神宮寺の源流は、多度山神霊そのものである地主神であったことになります。

○ 多度神宮寺は、 満願禅師の創建後800年間、真言宗の宝雲寺を中心に三重塔ほか多くの寺坊を要した準国分寺として朝廷からも信仰厚く、多度神の御加護のもとに仏教が民衆に広まりました。中世以降、この地方において浄土信仰がさかんになったものの、勢力を誇った浄土真宗の信者は、織田信長と敵対したため(長島一向一揆)、その兵火によって、多度神宮寺は全山が灰燼しました。

○ その後も、 多度の神霊は受け継がれ、多度大社のほか愛宕山に多度社別当が桑名藩主によって再興されましたが、社別当は、明治の神仏分離によって廃止され寺坊が法雲寺跡となっています。跡地の東方の山野辺は柚畑となって「柚井」と称され、多度の浄土真宗法雲寺は多度神宮宝雲寺に由来があります。

○ 多度山中央に流れる川は、 仏に供える水の川と称され、多度川の神霊地と隔てる形で、多度山東面に山岳信仰の登山口として柚井地区を形成しております。柚井地区と多度地区の氏神様(農水火と海山の神)が同じであることは、多度山信仰の源流が同じであることを意味しており、この地域には多度神宮寺のあった仏法地としての名残りがあります。

○ 雅楽は、 寺社の法会に幅広く演奏されてきました。多度は、雅楽の最古の伝統がある尾張国と隣接しており、多度神宮寺の時代にも雅楽は多く演奏されたことでしょう。多度社復興後の江戸後期には、藩主桑名松平氏の祖(定信)が楽翁と称する雅楽好きであったため、明治維新に桑名の楽人が伊勢神宮に出仕するまで、盛大な舞楽会が催されました。

○ 多度山からは、 東に濃尾平野、南に伊勢平野、西に鈴鹿山脈が一望できます。多度神は、木曽三川の水郷、伊勢の海と山の里を守護してきた神様です。多度神宮寺の建立された天平時代は、初期雅楽の隆盛期でした。多度の山里で雅楽を奏るとき、演奏者は多度の歴史を偲びながら大神さまとの対話をお楽しみいただけると思います。

多度雅楽の源流 〜1200年の歴史〜

『神宮寺伽藍縁起並資財帳』(国重要文化財/801年)によれば、多度神宮寺は、763(天平宝字7)年に多度神の御神託をもとに創建、資材目録に「楽具」(楽器装束)が記載されています。多度大社では、天平時代には、太鼓、筝などの楽器のほか、高麗楽の舞楽装束(面、装束、太刀、冠)があって、舞楽が演奏されていました。

< 多度神宮寺の楽具 >

大皷 壱面、小皷 参面 一破
高麗犬 壱頭、高麗冒子 弐頭 並白
衣捌 之中一紺調服 七紗、半臂 弐頌 並紅襴麻裏
箏琴 弐使
金泥大刀 壱柄、金泥錺女小刀 参柄
珠冠 壱口、骨笏 壱枚 長一尺一寸二分 厚四分 広一寸六分

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